自分の「好き」について、とことん考える

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

子どもに critical thinking を教える時はいつも、まず最初に自分の好きなものを挙げてもらって「なんでそれが好きなの?」と質問することにしています。「意見」には必ず「理由」がなくてはならない、という critical thinking の大原則になじんでもらうためです。

なぜ意見には理由が必要なのかと言うと、人の意見というものは理由(根拠)があって初めて説得力を持つからです。そして、この場合の「意見」には普通、好き嫌いの問題は含まれません。「くさやが大好き」という人が、どんなにすばらしい「理由」を並べ立てても、くさやが嫌いな人が「言われてみればそうだ、くさやが好きになったぞ」とは思わない、ということですね。

では、どうして「○○が好きなの?」とあえて子どもたちに聞くのかというと、ひとつには、とにかく「なぜ」と考えることが大事であり、自分の好きなスポーツやキャラクターなどが題材であれば「考えるって楽しい」と思ってくれるのでは、という思惑があるからです。さらに言うと、「なぜ自分は○○が好きなのか」という問いが、いずれ自分という人間を知るきっかけになってくれるかな…と淡い期待を抱いている、というのもあります。

私は大学で論文指導の授業をしていますが、学生がよく「卒業論文のテーマを決められない」と相談に来ます。あくまでも自分で考えてもらいたいので、私の方から「○○なんかどう?」と提案することはありません。かわりに、「なぜ自分はこの専攻に興味があるのか、なぜそもそもこの分野を選んだのか」ということをとことん考えてみてね、と言うことにしています。

とことん考える、というのは、フローチャート式にどんどん考えを深めていくというイメージです。「なぜ自分はこの専攻を選んだのか」への答えが例えば、「先輩が薦めてくれたから」だとしたら、さらに進んで「なぜ先輩の薦めがそれほど意味があったのか」と自問し、仮に答えが「先輩が話してくれた授業の内容がおもしろそうだったから」であれば、「その『授業の内容』とは何か」と具体化し、その授業がディスカッションであれば、「私はなぜディスカッションが好きなのか」という具合にさらに掘り下げていくのです。

すると、今まではあまり気づかなかった「自分」という人間の性質に気づいたり、自分が研究してみたいテーマもおぼろげながら見えてくることが多いようです。中には、学問とは全く関係ない答えに行き着くこともありますが、それでも若いうちに自分についてあれこれ考えてみるのは、(よけいなお世話かもしれませんが)決して悪いことではないと思っています。

若くはなくとも(たとえば私)「なぜ私は○○が好きなのか」と真剣に考えてみると、意外な発見があったりします。私自身の「好き」を例に、この「掘り下げ質問プロセス」を具体的にお見せすると…

私はチョコが大好き(なぜ?)→苦いから(そもそも苦いものが好きなのか?)→苦い野菜は好きだけれど、苦ければなんでもいいというわけではない。

これ以上掘り下げられない、という状態になったら、自分の好きなもの/人(今回の場合はチョコ)にまつわる、いちばん印象深いエピソード(あるいは原体験)について考えてみます。私の場合は、小学1年の時に6年生のおねえさんが「チョコレートパフェが食べたい!」と言ったのを聞いたことです。「チョコレートパフェを食べたいと発言すること=かっこいい大人の証」と思ったんですね。原体験について考えをめぐらせる内にそんなことを思い出しました。私にとっては「チョコレート(パフェでも何でも)を食べる=ちょっと背伸びをした気になる、かっこいい行為」という図式があることがぼんやりと見えたわけです。そう言えば、背伸びするの好きだよなぁ、私。と納得です。

先日、やはりチョコ好きの友人にこの話をしたところ、彼女の原体験は、子どもの頃に初めて食べたチョコフレークで、「世の中にこんなにおいしいものがあるなんて!」と感動したと言っていました。そこから話は進んで、「私たちが子どもの頃は、『物』が満足感の元だったのかもしれない」とも話してくれました。

相手を説得するための「理由」ではなく、自分を知るための「理由」。皆さんもお時間がある時に、とことん考えてみませんか。

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