月別アーカイブ: 2011年11月

「かみさまって、いるんだよ」

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

小学生相手のレッスンでは、「サンタクロースって本当にいるの?」「おばけっている?」「どうして、いる(又はいない)って言えるんだろう」という質問を時々します。論証が不可能に近い難問に子どもたちがチャレンジするわけですが、その奮闘ぶりは見ていて本当に頼もしいです。通常は「証拠」を見せることができない話なので、それだけに子どもたち一人一人の考える力と説得する力が問われます。

「神様って、じゃあ、いるの?」という質問を投げかけてみると、中には霊感の強い子もいて、「神様はいる、だって、見たことがあるもん」などの「体験談」も飛び出したりします。色々な答えがあっておもしろいなぁ、と私の方が教えることをしばし忘れて、じっと聞き入ってしまう瞬間です。

今日のテーマは、「神様っている?」ですが、最初にお断りしておくと、これは宗教的な話でも、無神論や不可知論などの話でもありません。純粋に、子どもがどうやって「神様の存在」という古今の難問を解き明かそうとしたのか、という話です。

うちの娘(小2)は小さい頃から家庭内のあらゆる側面で critical thinking を強いられて(?)来たのでかなりの熟練者なのですが、先日、その娘が夕飯時に「神様はいるかどうか、私、どうしても証明したい」と言ってきたので話を聞くことにしました(ちなみに娘は、キリスト教徒ではありません)。

「神様は絶対にいる」とまず言うので、理由を尋ねてみると「だって、私がそう思うから」(まずは宗教的なお答え)。あなたがそう思ってるだけじゃ、説得力はないよ、どうして神様はいるって言えるの?とツッコミを入れると、「神様がいなければ、私たちも、動物もいないから」。でもどうして、神様が私たちや動物を作ったってわかるの?とさらに聞くと、「聖書にそう書いてあるから」。

じゃあ、聖書に書いてあることって、本当のことなの?と聞いてみると、答えにつまった様子。私も自分の娘が相手だと容赦しないので、「神様ってでも、普通、誰も見たことないんだよね?どうして、そんなに自信を持って『神様はいる』って言えるの?神様がいるかどうか、すごい昔から頭のいい人たちが一生懸命証明しようとしてがんばってきたんだけど、それでも難しいって言われてるんだよ」とムキになって言ってしまったら…8歳になったばかりの娘が泣きだしてしまいました。

やってしまった!と思った時にはもう遅く、娘は「だって、本当にいるんだもん」と泣きながらお手洗いに立って行きました。数分経って、気を取り直して帰ってきたのですが、もう泣かせたくないし、神様の話はおヒラキかと思っていたら、「さっきの話の続き、してもいい?」と娘。躊躇しつつ「そこまでしたいんだったら」と促すと、娘が一気に言ったことには:

「神様のことは、聖書や神話に出てくるけど、聖書とか神話の話って、少なくとも100個はあるよね。もしもそんなにたくさんの話が全部ウソだったとしたら、この世界には嘘つきがたくさんいるってことになっちゃう。嘘つきがそんなにたくさんいるっていうのは、どう考えてもおかしい。だから、聖書に書いてあることは本当で、神様はいるの」。

キリスト教の「神様」と神話の「神様」とを混同していること、「少なくとも100個」の根拠があいまいであること、などツッコミ所はあったのですが、私もさすがにおとなしく聞いていました。もう泣かせたくないという気持ちがもちろんあったからですが、同時に、娘の論理力に(親バカながら)舌を巻いたからです。

子どもの論理力ってスゴい。と率直に思いました。これからも、我が子だけでなく、色々な子どもの「論理力」と向き合っていきたいと思います。そのためには、私も切磋琢磨しないとなりません。

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「地アタマのすすめ」が教えてくれたこと

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

守屋義彦著「かしこい子どもを育てる地アタマのすすめ」(2004年)という本については、ご存知の方も多いと思います。

小学校で長年算数を教え、現在は国立学園小学校の校長を務めている守屋氏ですが、彼の言う「地アタマ」とは、自分で考え、自分で行動し、自分の力で生き抜いていくために必要な、人間の「素地」のこと。「自分の頭できちんと考える力」を生み出してくれる根本的な能力、と言い換えてもいいと思います。

その地アタマ、なぜ今の子どもたちに必要かというと、「ひと昔前の高度経済成長期には、[だれかが先に行った道を、上手になぞって生きていくこと]も生活向上のためには必要だったのでしょう。しかし、自分たちの前に道がなく、自らが自らの道を作っていかなければならなくなったいま、この考え方には大きな問題があります」という背景のためだ、と著者は説明しています。誰かが決めた正解を探すだけではもうダメだ、というのです。

また、勉強で大事なのは「答え」そのものよりも「答え」にたどり着く道筋を自分で模索することであり、色々な物事・勉強に本当にかかわるためには「どうして?」という質問は欠かせない、子どもの「どうして?」を大切にしよう、とも守屋氏は書いています。

これは、まさに私が critical thinking を通して子どもたちに教えようとしていることと同じです。地アタマ=critical thinking のあるアタマ、とも言えるのではないか、と思いました。

私が Critical Thinking Project を通じて子どもたちに伝えたいのは、「大事なのは自分で考えること、なぜ?って考えてみること、考えるって楽しい!と発見すること」というメッセージですが、この本は、私のこのような思いは間違っていなかった、と教えてくれている気がします。

そして、もうひとつ、この本が教えてくれたのは「失敗なんて怖くない」ということです。

失敗しないように一生懸命がんばることと、失敗を怖れることとは違う — という、もしかしたら多くの人にとっては当たり前かもしれないけれど、私にとっては人生最大の課題である「問題」について、今一度考えさせられました。間違えた理由を子どもに考えさせることがいかに「失敗から学ぶ」ことにつながるか、また、子どもが転んだ時に「次はもっと上手に転ぼうね」と親が言えることがいかに大事か、この本は気づかせてくれます。

この本を読んで以来、失敗についてずっと考えていたのですが、先日、もうすぐ4歳になる我が息子がふいに「アメの絵をかいてあげる」と言ってきました。しばらく経って見てみると、床には描きかけの絵が落ちていました。「どうしたの?」と息子に尋ねると、「それ、しっぱいしちゃったの」。失敗したからと言ってしょげる様子もなく、息子は新しい紙いっぱいに無数の「アメ」を黙々と描き続けていました。

息子の「アメの絵」の完成図はリビングに飾りました。一方の、棒付きキャンデーのようなアメが3つだけ描かれた、余白だらけの「しっぱいしちゃった」絵は、今、私の目の前にあります。

大人の場合は、本当に失敗が許されない状況もあるわけですが、それでも、何か失敗した時には、「なんでかなぁ」と子どもと一緒に考えられるような親になるのが目下の目標です。失敗しても大丈夫だよ、次がんばればいいんだよ、と今日も息子の絵が励ましてくれます。

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