月別アーカイブ: 2011年9月

英語を話すときの、はずかしいという気持ち

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

いきなり私事で恐縮ですが、昨日、小学低学年の我が娘が、腰まであった長い髪をバッサリと切りました。みんな、私の髪を見たらどんな反応をしてくれるかな、と本人はドキドキ。いつも仲良くしてもらっているアメリカ人のおにいさん(仮に名前をピーターとします)も驚かすんだ、と言い出しました。

ピーターとは普段日本語で話をするのですが、英語を習い始めた娘に、せっかくだから電話して英語で I had my hair cut. と言ってみたら?と提案しました。ところが「え〜っ!?!いやだ〜!!」との答え。理由を尋ねてみると、はずかしいからだ、といいます。どうしてはずかしいの、とさらに尋ねてみると「だってピーターは子どもの頃から英語を話しているでしょう。そんな人に私、英語を話すの、はずかしいもん」。

この「はずかしい」という気持ち、日本で英語を学習する人には決してめずらしい感情ではないと思います。はずかしいと思うことが悪いとは思いません(これについては後述)。ただ、はずかしいと思うことによって、伝えられるはずだった気持ちが伝えられない(ひいては、もしかしたら広がるはずだった世界が広がらない)のはもったいないと思います。さらに人間、はずかしいと思うと声が小さくなる傾向があるので、本当は正しい英語を話していたのに声が小さいばかりに相手に聞き返されたりして、ますます自信を失っていく…という悪循環に陥りかねないのです。

そこで、私は娘に、はずかしいなんて思わなくていいんだ、ということを教えるために3つの「大事なこと」を話してみました。

  1. 言葉は道具である
  2. 何よりも、「伝えたい」という気持ちが大事
  3. まちがえた言い方をしても、笑われることはない

まず、大事なのは「言葉は道具だ」とわり切ること。道具を使うのは人間です。上手に使えたほうがもちろんいいし、上手に使えるようにがんばるのはすばらしいことだけれど、最終的に使えなくても「私、縄跳びがあまり得意じゃないの」ぐらいの気持ちでいればいいんじゃないか、と思うんです(縄跳びを軽視しているわけではありません、念のため)。

次に、何のために言葉という道具を使うのか、という問題ですが、私はこれがいちばん大事だと思っています。言葉は、人に何かを伝えるための道具です。嬉しい気持ち、驚かせたいという気持ち、がんばってほしい、という気持ち。この伝えたいという気持ちは大事にすべきだと思うんです。いくらペラペラ話せても、伝えたい「何か」がなければ、せっかくの言葉も台無しです。時には、うまく伝わらずに相手を怒らせてしまうこともあるかもしれません。でも(子どもの内は特に)何度も失敗して、その都度学ぶことが重要だと思います。

そして、娘がいちばん気にやんでいた「笑われるんじゃないか」ということについて。娘に「ピーターは時々日本語をまちがえることってない?そのとき、『ピーターったら、おっかしー、へんなの』って思う?笑ったことある?」と尋ねました。答えは当然NOです。相手の言葉を一生懸命話そうとがんばっている外国人のことを笑う人って、あまりいないと思います。もしも笑われたら…そういう人とは(少なくとも私は)つき合いたくないな、と思ってしまいます(過去の記事「言いよどみのススメ」もご参照ください)。

「だから、あんまり考え込むことないのよ」と娘に言うと、娘が「そうか、かるーく、風船みたいな気分でいればいいんだね」と言ってくれました。そして結局どうなったかと言うと…娘は考え抜いた末、電話することをやめました。でも娘の頭の片隅に「3つの大事なこと」がかすかに残ってくれれば、と思っています。

実は、私が娘にこのような話をした背景には、私自身がはずかしさにずっととらわれていたという事情があります。私はおそらく人一倍、自分の英語を人に聞かれることをはずかしいと感じていた(今でもちょっとは感じている)のだと思います(娘は私のDNAを受けついでしまったのですね)。はずかしさを克服するために英語を猛勉強して、おかげで私の英語は飛躍的に上達しました。でも、どんなに英語が上達しても、はずかしさは消えなかったからこそ、上の3つの「大事なこと」を学んだのだと思います。目的をもって猛勉強することはすばらしいことだと思います。ただ、ふわ〜っとすることも必要、ですよね。風船みたいに。

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子どもの「どうして?」につき合う法

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

子どもに「どうして?」「なんで?」と矢継ぎ早にされて、もー、ウルサイ!と言いたくなったことってありませんか。でもこの「どうして?」という質問、実は大人の critical thinking 力を試してくれる、貴重な問いかけなんですよ。

なぜかと言うと、「どうして?」という問いは critical thinking の基本中の基本だからです。誰かの意見や情報の是非を見きわめるためには、「どうしてそう言えるのか」ということをまず考える必要があるからなんですね。

子どもに「どうして?」と聞かれたら、「これは自分の critical thinking 力をアップさせる絶好のチャンス!」と思って、とことんつき合ってあげてください。たとえば、「どうして学校にオモチャを持っていっちゃいけないの?」などと聞かれたら、「そういうルールだから」などとあっさり片づけずに、今一度、理由を考えてみましょう。たとえば「だって、学校は勉強するところでしょう、オモチャは勉強のときは要らないでしょう」と言えば、子どもも(おそらく)納得しますよね(中には「それでも持って行くんだ!」と言いはる子どももいると思いますが)。

ここで重要なのは、「学校にはオモチャを持っていってはいけない」という「常識」の根拠をあらためて考えてみる、ということです。普段なにげなく「当たりまえ」だと感じていることの根拠を考えてみるのは、critical thinking を身につけるにはとてもよい訓練なんです。

ところで「どうして?」というこの問い、少なくとも日本にいると、大人になるにつれてなりをひそめてしまうように感じます。ちなみに私は好奇心が強いのか、critical thinking を教えているせいか、すぐ「なんで?」と聞いてしまうクチですが…

ある日、「どうして大人になると『どうして?』と聞かなくなるのか」ということが急に気になりだしました。そこで先日、勉強会でご一緒している「大人」の方たちに、いつから「どうして」と言わなくなったと思いますか、と尋ねてみました。

興味深かったのは、「子どもの頃からずっと『どうして?』と聞き続けている」という回答が多かったこと。「だって世の中は疑問もいっぱい、答えもいっぱい」という指摘もありました。その時の回答を以下にまとめてみると…

「どうして?」と聞かなくなっていく理由として考えられるのは:

  • 教育を受けていくうちに「正解は何か?」という点に関心が向いてしまうから(したがって、「どうしてそれが正解なのか?」などという質問はあまり歓迎されなくなるのでは)
  • 大人になると人間関係や社会上のマナー、自己解決責任など、「どうして?」と素直に言えない事情が増えてくる
  • 日本社会は「あ・うん」の呼吸でコミュニケーションをとることが多いので、「どうして?」と聞くと野暮、と思われる風潮がある
  • 日本=単一民族国家、という図式があるためか、また伝統的に「個」よりも「和」を重んじるためか、個性を認めづらい風土がある(「どうして?」という問いを認めることは個性を認めることにもつながっていく)

…実に色々考えさせられます(ご協力くださった皆様、本当にありがとうございました)。

グローバル化、情報化と言われて久しいですが、たくさんの情報ときちんとつきあい、自分と違う文化や背景を持った人とわかりあっていくためには、「あ・うん型」のコミュニケーションでは通用しません。「あ・うん型」が悪い、あるいは時代遅れだ、というつもりはもちろんありません。でもこれからは「言葉でわかりあう型」のコミュニケーションの訓練をしておく必要がある、ということは確かだと思います。どうやって言葉でわかりあえばいいのかわからない…という方、まずは子どもの「どうして?」とつき合うことから始めてみませんか。

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